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南北朝時代。北朝の都は京都にあって、南朝はこの吉野に都があった時代が57年間続きました。
吉野に都があったなんて今では少し信じられないですが、数々の寺社仏閣があり、帝を迎える土壌もありました。
新田軍が鎌倉幕府をまさに攻め滅ぼそうとしていた頃、吉野では後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王が、鎌倉方と激しく戦っていました。
蔵王堂の前の四本桜は、吉野城が鎌倉方に包囲され、最期の酒宴をした所と言われています。蔵王堂に向って右隅に「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱があります。
吉野山には後醍醐天皇以上に、護良親王所縁の地が多数あります。
そんな大塔宮ゆかりの場所を訪ねてみましょう。
開催日時 | 9月20日(土曜日) |
集合場所 | 近鉄吉野神宮駅 |
集合時間 | 午前10時10分 |
募集定員 | 20名(定員に達し次第〆切) |
参加費用 | 2,500円(大峰バス・スマイルバス代・昼食代・ガイド・保険代含みます) |
吉野神宮駅 (10:28発) ⇒ 上千本口(10:45着)・竹林院前(10:47発) ⇒(大峰ケーブルバス)⇒奥千本口(11:00着) … つつじヶ城(11:15) … 丈の橋(11:45) … 大塔宮仰徳碑(昼食)(12:30) … 火の見櫓(13:15) … 天王橋(13:25) … 蔵王堂(13:50) … 攻めが辻(14:50)/… 陽ぼっこ(休憩)(15:00) … 吉野山駐車場(15:35 15:39発) ⇒ 吉野神宮前(15:47着) |
⇒スマイルバス乗車区間 …徒歩区間 |
ここは大塔宮吉野城の詰城のあった所とされています。
自然の要害の地形を活かした吉野城に対して、北条軍は攻めあぐみ一進一退の攻防を繰り返しますが、吉野側の岩菊丸が北条軍と通じて搦め手(裏側)からの道を案内して、菜摘の方から攻め込みました。
今の奥千本宝塔院跡のあたりから下に向って攻撃をしかけ、大塔宮が最も頼りにしていたこの城が、真っ先に落ちました。
ここは標高702mで眺めがよく、現在では展望台となっています。
天王橋・大橋を加えた吉野三橋の一つで、大塔宮吉野城の空掘のあった所です。
ここを深く掘り割って跳ね橋を架けて、合戦の時に橋を跳ね上げると掘りが現れ、橋はそのまま楯になりました。
このあたりは、西に金剛・葛城の山脈、北に龍門・高取の山並みが見渡せる所で、大塔宮方の武士たちが合戦の合図の狼煙を上げた所とされています。
この近くには火の見櫓跡も残っています。
この大きな位牌は、後醍醐天皇の建武の中興に寄与した親王の遺徳を讃えて、皇紀2600年(昭和14年)に建てられました。
吉野三橋の一つです。中千本の相叶(おおか)の尾根と、竹林院の丘をつなぐ細い尾根を掘り割った空掘に渡された橋で、今から675年前に掘られた時には、上から攻め下り、下から攻め上げる敵を防ぐためには、重要な戦略的役割をもっていました。
蔵王堂の前には石の柵で囲まれた中に、桜の木が四本植えられています。柵の右隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建っています。
元弘三年(1333)に、北条幕府の大軍に攻められた大塔宮は、ここを本陣として壮絶な戦いを繰り広げましたが、落城に際して最期の酒宴を行った所とされています。この柵内にある四本桜は、その折に張り巡らした陣幕の柱の跡だともされています。
また、ビジターセンターからの階段を上った左に、「村上義光公忠死之所」と刻まれた石碑があります。
ここにはかつて「仁天門」という門があり、大塔宮がいよいよ決戦という時、重臣の村上義光が、大塔宮の鎧を身に纏い仁天門を毛かけ登り、腹を一文字にかき切り、壮絶な最期を遂げた場所とされています。大塔宮らはこの隙に高野山に落ち伸びました。
七曲りの道と、吉野神宮からの道が出合う所を「攻めが辻」といいます。
吉野山に立てこもった大塔宮方の守りと、大軍の北条方の攻撃がぶつかり、激しい合戦を繰り広げた所です。
このすぐ上にあるのが、朱塗りの欄干の「大橋」です。
吉野三橋の一つで、ここも空掘りにかかる戦略的な橋でした。