犬養孝が愛した万葉の道を歩くー9月16日(土)

万葉集研究に一生を捧げた万葉集の第一人者の犬養孝。
生前全国の万葉故地をすべて訪れた犬養さんは、その中でも吉野山から喜佐谷を越え、宮滝に至る「万葉の道」は、学生時代から幾度となく歩かれました。
そんな吉野の「万葉の道」を愛した犬養孝さんは平成10年10月3日にお亡くなりになり、今年は20年目となります。
今回は犬養さんの視線となって、一緒に吉野山から宮滝まで歩いてみませんか。

■募集詳細

集合日時 9月16日(土)10時20分

集合場所 近鉄吉野神宮駅

参加費  2000円

募集人員 20名限定です

■お勧めポイント

  • 吉野町ボランティアガイドがコースをご案内します。
  • 犬養孝先生が歩かれたコースを追体験します。
  • 万葉歌が詠われたその場所で歌の説明をします。
  • 万葉の道の途中の喜佐谷で、地元の町づくりグループによる食事を味わいます。

■行  程

吉野神宮駅10:28 ⇒ 11:45上千本口11:05 ・・・ 11:10稚児松地蔵11:20 ・・・ 11:25石 碑 ・・・ 11:40鏡 岩12:10 ・・・ 12:20高 滝12:45 ・・・ 13:20喜佐谷公民館 ・・・ 13:40桜木神社13:50 ・・・ 14:00展望台14:05 ・・・ 14:10旧中荘小学校14:15 ・・・ 14:25吉野歴史資料館14:35 ・・・ 14:40・駐車場・宮 滝15:10 15:15 ⇒ 15:30大和上市駅

道しるべ

民宿太鼓判の前に道を下り、右折し暫らく坂を登りきった所に稚児松地蔵があります。その地蔵を越えた所から本格的な「万葉の道」が始まります。
犬養孝さんの「私の道:喜佐谷」には「・・・万葉の吉野では、桜は一本も出ないし、ほとんどが水の吉野であって、吉野離宮があったといわれる宮滝を中心としているから、稚児松から喜佐谷をくだる道は、万葉の核心に近づく道といってよい。・・・」

道しるべ

「・・・幽暗な森の下道を抜けると、石の道しるべがあって。『右いせ きさだに』と書かれている。歩くよりほかなかったむかしには、伊勢へのだいじな道筋でもあったのだ。ここから約四キロの喜佐谷道は、象の小川の源流に沿うて、森林のなかを下る。
この世のほかの静寂な小道である。私は学生の頃に、五万分の一の地図をたよりに、この道を上り下りしてから、今日まで数えきれないほど歩いている。一人で物を考え乍ら歩くのに最適だし、無心になって自然の懐に入る序奏でもあるのだ。

高 滝

高滝は「馬洗いの滝」とも呼ばれ、源義経が吉野から逃れる際に通過したとされ、葛飾北斎の「和州吉野義経馬洗滝」にも描かれている滝です。最近までは滝壺付近まで歩いて行けませんでしたが、地域の方々が道の整備をして頂き、この綺麗な滝が身近で見る事ができるようになりました。

喜佐谷公民館

高滝を過ぎると喜佐谷の集落下りてきます。ここからは平坦な道が続きます。そして喜佐谷地区公民館に着きます。この前に少し大きな東屋「うたたね亭」があり、昼食はここで食べて戴くことになります。
この地区の方々が、地域の食材を使っての食事を楽しんでいただきます。

桜木神社

大己貴神、少彦名神、天武天皇を祭る桜木神社は陽が射し込み、開放的な雰囲気のある素晴らしい神社です」。
この神社に入るには、象の小川を渡る「こぬれ橋」をわたります。屋根のある屋形橋で、義経伝承の「うたた寝橋」をイメージしています。この辺りでは数多くの万葉歌が詠われています。
境内の石碑には山部赤人の歌
「み吉野の 象山の際の 木末にはここだもさわく 鳥の声かも」
の歌碑が自然石に刻み込まれています。
又周辺には数多くの万葉歌が詠われています。

その中でも吉野が好きだった歌人は、大伴旅人ですした。遠く大宰府の赴任先でも、吉野で過ごした日々を歌に残しています」。
「昔見し 象の小川を いまみれば、いよよさやけく なりにけるかも」
「わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため」
写真は昔商工会青年部がこの桜木神社前の象の小川で行った「万葉パフォーマンス」です。
柿本人麻呂・大伴旅人・山部赤人・額田王が、それぞれが詠んだ万葉歌を朗誦するパフォーマンスを行った時の写真です。

激つ河内展望台

吉野宮や吉野離宮のあった宮滝は、本来はミヤタギと発音すべきようでした。吉野町史によると、タキはいわゆる瀑布の意味ではなく、貝原益軒も『宮滝は滝にあらず』と記しているように、水のたぎり流れる所、激流する『たぎつ瀬』であったようです。
又宮滝のことを『たぎつ河内』とも言います。河内というのは、宮ぼめ、土地ぼめの詞章に使われる言葉で、この「激つ河内」はその昔の宮滝にはぴったりとする所でした。
今は上流にダムが出来て、水量も少なくなりましたが、昔は水量が多く流れもあった場所だったことが、柿本人麻呂の次の歌で伺えます。
「山川も 依りて仕ふる神ながら 激つ河内に 船出せすかも」