第3話 墨絵画家 井上北斗さん

吉野ネハホリ

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吉野山に春が来ました。井上北斗さんにとって特別な季節です。
ひとつの作品を指し示し、「朝4時頃に家を出て奥千本に向かい描いたのがこのサクラの絵です。私がこの上なく美しいと思っている清楚なヤマザクラです。だいたい6時~8時頃の2時間ほどが私に与えられた時間ですね。それを過ぎると花見を楽しむお客さんたちがおいでになりますから」。
北斗さんの嬉しそうで恥ずかしそうな話しぶりは、恋人とのひそやかな逢瀬をそっと打ち明けるようでした。

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小学生時代の作文に「お父さんみたいな上手な絵描きさんになりたい」と書いていたという北斗さん。お父様の喜斎さんは水墨画家として日本全国を巡り、描いた人でした。
北斗少年の初志が揺らぐことはなかったようです。ちょっとは反抗してみた時期もあったのでは?と意地悪い質問をしましたが、「父はすばらしい絵描きで、ただただ尊敬しています。母も書道家としてすごい人です」というお返事を迷うことなく。このときもまたニコニコと嬉しそうで恥ずかしそうでした。

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北斗さんとヤマザクラの出合いは、北斗さんが吉野山を描くようになる前、高校生時代にさかのぼります。
名古屋の清州城にスケッチに行ったときのこと。華やかに咲くソメイヨシノの中に、たった一本ヤマザクラがありました。「スッキリとして、凛として、可憐で。なんというか……。いいです、美しいです(笑)」。
十代の頃の北斗さんも、きっと嬉しそうで恥ずかしそうな表情をしながら、そのヤマザクラを見つめていたのでしょうね。

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ヤマザクラを愛する北斗さん。花の時期だけでなく、吉野に居ればこそわかるヤマザクラの紅葉の美しさにも心を動かされています。「昨年の吉野山の紅葉は十年に一度くらいの見事さでした。葉の色が変わってからも葉の持ちがよくて、ピンクがかった色を長く楽しめました。春の美しさ、秋の美しさ、それぞれを伝えなければと感じました」。

徒弟生活を長く続けていたある日、「父に『絵だけ描いてこい』と諭されパリに渡航」します。その時パリを中心にヨーロッパ各国を墨で描いた作品は千枚を超えました。そうした中で日本美術の高みを痛感し、「パリの街は自分の居る場所ではないな」と見極めた北斗さんは吉野に帰ってきます。ターニングポイントでした。
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北斗さん、年を重ねるごとに「山奥へ、山奥へと誘われている気がします」と言います。まだ見ぬヤマザクラが、北斗さんと出合うのを待っているのかも知れませんね。
「吉野を舞台にした古事記の物語の世界を描きたい」と考え、その制作も始めておいでです。
「生み出したいです。等伯や狩野派に挑むつもりで、吉野にへばりついて、描いて描いて描き続けたい。描くべき題材が吉野には限りなくありますからね。そして、そろそろ挑戦したいと思っているものがあります。襖絵です。年齢、根気、描くべきテーマ。そうしたものの準備が整ってきたことを感じています」。
終始控えめで、照れながら話す北斗さんの、まっすぐで力強い決意表明でした。

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父親とともに育った名古屋を出て、各地を旅し描いて、たどり着いた吉野は16番目の町。北斗さんは、ここを終の棲家にしようとしています。そんな墨絵画家の作品を、春の吉野山でご覧いただけます。3月29日~5月6日に勝手神社前の戎館さんで、北斗さんが大好きなヤマザクラを中心とした展示会が開催されますので、ぜひお出かけになってみてください。

文:砂川みほ子  写真:乾 智美

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